メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第15章

念願のメキシコ料理本の刊行

1996年、初夏の頃、日置と名乗る一見怪しげな男が来訪した。用件は料理講習の依頼。 大柄で酒焼けした顔つきの彼の正体は、チキンラーメンで有名な日清食品の食文化セミナーの代表プロデューサーだった。毎月、数回開催されるこの教室は6000人の会員を抱え、各回抽選で60人の受講生しか聴講出来ないシステムで、講師の顔ぶれも鉄人の道場六三郎氏、陳健一氏、坂井シェフをはじめ、分とく山の野崎氏、創作中華の脇屋氏、ラ・ベットラの落合氏等、著名な料理人達が名を連ねる名門のセミナーである。身に余る光栄と自覚して受諾した。9月末の開催に向けて広報されたメキシコ料理の第1回は、有難いことに抽選に外れた方々の立ち見でもいいからとの強い希望があり、約80人を受け入れることを了承して講習が行われた。講義内容が進むにつれ、受講生達の反応は未知の世界を探索する興味にそそられ、実習とともに瞬時に時間が過ぎた。反響の大きさにスタッフ達も驚き、終了後、控室でメキシコ料理談義が大いに盛り上がった一日であった。伏線を敷いたつもりは全く無かったが、この出来事で運命の糸に引かれて行く事になるとはこの時は思いもよらなかった。

それから4年が経過し、幾度目かの講習の後、日置氏から「渡辺さんはこんなにメキシコ料理に詳しいのに、どうして本を出さないんですか?」と聞かれた。それまでに料理書や辞典に寄稿した原稿はいくつかはあったものの、「自分の本なんておこがましくて、それに出版社に企画も無いでしょう。」と答えると、「勿体無いですね・・・。」と彼は残念そうだった。数日後、2人の男を連れて来店した彼から紹介された人物達の名刺には思わず驚愕する肩書きが記されていた。旭屋出版、営業本部長、編集長の文字である。営業本部長の男が彼の大学時代の盟友で、一度話を聞きたいとの訪問であった。どこまで熱弁を振るったのか、気がつけば3時間を超えていたようで「会議で検討します。」と、ご返事を頂けた。具体的な企画書を持って編集長が来られたのは一ヵ月後の事だった。店を年中無休で営業している関係上、それから約一年の歳月をかけて10数回の撮影を敢行し、合間を縫って原稿の執筆をしたため、メキシコ料理の指導書を刊行する事が出来た。国会図書館を始め、全国の図書館、飲食に携わる方々が購入してくれて初版は2ヶ月で完売、5年目で第9刷を数える結果が出た。専門書の販売が伸び悩む昨今、意外な実績らしく、本部長から第2弾の企画を持ちかけられることになる。