メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第31章

脳内に埋もれている味の記憶

幼い頃から大人になるまで、人々に根付く食事における嗜好(しこう)と云うものは、彼らが育つ地域、環境、時代背景によって多種様々に異なるものである。それぞれの家庭の調理に留まらず、外食に見い出される新たな出会いの感動・発見が生涯における味覚のアクセントとなって脳内に埋もれている。10年程前、その出来事に遭遇した。来店した30才くらいの男性は、小柄な女性を連れ、少し緊張したその面持ちからは、初めてのデートの様子が伺えた。何かを探るようにメニューを隈なく見続けていたので、お薦めの品でも説明しようと側に寄った時のことだった。「すみません、自分が小学校5年生の時に食べた物が無いんです」。どんな一品か話しを聞くと。思い出す献立があった。豚ロース肉をソテーして、微量の青唐辛子を効かせたトマトソースで絡めた『豚ロース肉のランチェラソース』というもの。食材は厨房に揃っていたので、再生は容易なことだった。出来上がりを卓に運ぶと、彼は手放しで喜び、「これだよ!これが旨いんだよ」と連れの彼女に何度も大きな声を張り上げていた。彼の得意気な表情を眺めていると、およそ20年の時を超えた味の記憶にラ・カシータの足跡がもたらす意義を改めて感じていた。

そういえば遡(さかのぼ)ること30年。俳優の宇津井健さんが初めて来られた時。同じようなことがあった。演技に必要な為、乗馬の修練でメキシコの牧場に留学した折、賄い婦のメキシコ人がいつも出してくれた料理が食べたい、「渡辺さん出来ますか?」と3品要望された。内の2品、小海老とアボカドのカクテルと、海老のニンニク炒め。これは当時のメニューに収まっていた。もう一つは、細切りにした鶏肉と、スライスした玉ねぎ、ピーマン、チレ、ハラペーニョを炒め合わせたものと、インゲン豆を塩で煮てひたし、ラードで炒め直したフリホーレス・レフリートス、そしてワカモーレ(アボカドのディップ)を一皿に盛り付け、それぞれをトルティージャに巻いて食するFAJITA(ファヒータ)というものだった。チレ、ハラペーニョは当時、まだ手元には無かったが、ピーマンの内側にグリーンチリのペーストを擦り(なす)リ付け、少し辛さを補う手法を取って、間に合う食材でお作りしたところ、「この味ですよ、懐かしいなあ・・・・」と子供のような笑顔で満足げに頷(うなず)いておられた。この時以来、常連客として何度も来られているが、オーダーはいつも前述のものである。