メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第37章

テクノポップ、ライヴコンサート会場への出店

飲食店を営む上で、『お客さまは神様』と崇(あが)め、顧客名簿を作成し、勤務先、趣味、好みなどを了解しているのは常識。況(ま)してや、数十年の常連客ともなれば相手の素性を充分に把握し、長期間我が店を熱愛していただける気持ちへの感謝を込めて、より一層の接客に心がけるはず。ところが私の場合、誠に申し訳ない事実だが、殆どの顧客の氏名、職業などを認知していない。家族や友人と食事に来られた方々と名刺交換など皆無に近いし、電話で予約を受けると名字くらいは判(わか)るのだが、目前の皿に没頭されている相手に立ち入る詮索の話には発展せず、大抵(たいてい)は料理の味自慢かメキシコ食文化の講釈で盛り上がってしまう。この30数年の間、この連載で記述しているエピソードなどで話題には事欠かないままに顧客との連携は継続し、今更、私的な情報を聞き出せない事態に陥(おちい)っている次第。唯、何かの切っ掛けで、相手の立場が判明し、びっくり仰天する場合も多々あった。2002年の夏も終わる頃、顔馴染みの外国人が来店した。国籍(たぶん、北ヨーロッパ)も名前も不明だが、20年以上の常連で、一時期は毎月のように来られていた。食事の最中、珍しく席に呼ばれ、相談を持ち掛けられた。自分の企画しているイベントに出店して欲しいとの依頼だった。

その催しとは『electraglide』。毎年、幕張メッセで行われるテクノポップのライヴコンサート。約2万人のファンを集結させる大イベントである。想像を絶する規模の話に訳を尋ねてみると、前回までのアーティストの評判は上々だったが、飲食のブースは不味いと散々の不評の嵐。そこで今回は自分が美味しいと思う店ばかりを選びたい、厳選8店舗中で、第一候補がラ・カシータですと力説された。店のスタッフとの協議の結果、『若鶏と野菜のタコス』1種に絞り、2ヶ月先の開催へ向けて準備が始まった。一晩に数千人もの客を相手にする仕事は未経験だが、味を絶賛された限りは妥協は許されない。アルバイト人材の確保、調理機材のリース、飲み物、食材の大量発注、決め手のサルサ・チポトレの仕込みだけでも400リットルを遙かに超える。当時のスタッフ達の絶大な結束力の元、無事当日を迎えた。店に残留部隊を残し、未知なる偉業への闘志に燃えながら会場へ出発したのが午前10時、ブースでの準備を整え、夜6時開演を待つ。休憩タイムの瞬間、一度に数百人の列が並ぶ。手渡しを分刻みでこなす作業が限りなく続く。幾度も押し寄せる大波を乗り切り、終了したのが午前7時。本部からの報告は、集客も売上も他店を抑え第1位を獲得していた。その後、店を訪れた彼の賛美の笑顔がまだ胸に残っている。