メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第40章

学術書の執筆依頼

唐辛子の習性は、実に柔軟で逞(たくま)しく強(したた)かだが、時には甘え上手でもある。コロンブスが発見した新大陸からヨーロッパ、アジアにもたらされた食材は、唐辛子以外にもジャガ芋、トウモロコシ、トマトなどがあるが、他の野菜に比べ、およそ100年も経過しない期間で世界中に根付いてしまった実績とともに、各国の料理に欠かせない脇役として実在している。温暖な気候のメキシコから北欧に居住するとなれば、人間もそうだが、身体に脂肪を貯え、コートも羽織りたくなる。それがパプリカ。そして熱帯の南インドではTシャツで過ごせるように細長く薄皮にと、適応能力抜群の生き様である。また逆境に強く、タイや韓国、中国四川のような条件の悪い場所ほど、(メキシコでも石灰質の土壌では)己を叱咤激励し、旨味を含んだ持ち味や、より個性の強い辛さが備わるように成長する。肥沃(ひよく)な土地の我が国では、過保護というか、幼いまま成人したようなものが数多く見られる。さらにその強烈な辛みのため、獣は食さないが、痛覚のない鳥類が常食することによって、より遠くの地域に分布された実績が今日の繁栄をもたらせたものと考えられる。

国立民族学博物館名誉教授の山本紀夫農学博士から執筆依頼の便りが届いたのは2009年の夏の頃だった。題名は「トウガラシ讃歌」。企画の趣旨は、主食になることのない唐辛子が世界各地の食文化に融合し、各地の食卓革命に果たした役割を、歴史的受容とともに考察したいとの意向が記されていた。構成員を見て驚いた。何かの間違いではないのか? 総勢20名の執筆者のほとんどが、農学、文化人類学において国立大学の博士課程修了の現役教授ばかりである。電話を手に取っていた。「本当に僕で良いのでしょうか?」、優しい言葉で返事が返ってきた。「是非、宜しくお願いします」と。身に余るどころか、天地が逆さまになるほどの光栄な出来事に、身体は久々の緊張感と闘争心に漲(みなぎ)っていた。ある程度の知識には自信があったが、限られた原稿文字数の中に集約させたベストの仕上がりに書き上げたいとの思いに、検証の日々が始まった。およそ3500年を遡(さかのぼ)る古代文明に培われた集落における栽培から多種多様な唐辛子が群生し、マヤ、アステカの古典期には、その地域に根差したそれぞれの種が人々の食を支えていた。提出後、山本教授から満点の知らせが届いた日は、安堵とともに達成感が沸き上がってきたのが記憶に新しい。諸外国にも類がない全世界を網羅した唐辛子の学術書のお手伝いができた経験は、私自身の誇りでもある。