メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第41章

カレーハウスBOLTSとの出会い

1976年の初夏の頃、私は渋谷公園通りの店の開店準備で慌ただしい日々を過ごしていた。たった7坪のスペースだが、初めて誰にも遠慮なく自分の料理スタイルが提供できる場所。調理に関しては自信があったが、内装を含めてフロンティアスピリット溢れる美意識の空間にしたいとの思いに心は躍っていた。とは言っても、有り余る資金があるわけでもなく、さてどうしたものかと思い悩む毎日が続く。そんな時、相棒の高木君から提案が出た。安価な廃屋の木材を譲り受けて、梁(はり)や垂木(たるき)はテーブルに、太い柱は分断して丸椅子にというアイデアに感動すら覚えて賛同した。調べてみると、経費はほぼ運搬費だけで資材はタダ同然の価格に扱われていた。そして床を敷き詰めたのはJR(当時は国鉄)から買い付けた古材の枕木数十本。1本800円の出費だった。1坪の厨房からの配膳口を支えるのは、木製の電信柱。これには訳があって、もう時効だから許していただきたいが、資材を運ぶ途中、偶然、道路に横たわっていた古い電柱を無断で拝借したもの。後にNTT(当時は電電公社)から軽いお叱りを受けることとなった。照明はアンティークなビードロガラスの笠を被った白熱灯。極めつけは天井付近を巡り回る電動の鉄道模型。全て彼のプロデュースだった。

メニュー構成において一番難儀したのは唐辛子。その頃の輸入食料品店にはメキシコ産は皆無で、たまに見つけても米国産の不味いものばかり。かと言って我が国の青唐辛子では香りも旨味も追いつかない。お手上げ状況の中、悶々と眠れない夜が続いた。気分転換に横浜に買い物に出かけた日のことである。ふと立ち寄ったインド料理店でカレーを注文したときに閃(ひらめ)いた。ここなら上物があるはず。意を決して分けて貰えないかお願いしてみた。突然の申し出に店のスタッフも戸惑いながら、経営者に聞いてみると答えてくれたが、返事はNOだった。それから都内、横浜のカレーを提供している専門店を軒並み訪ね歩く日々が始まり、ほとんどの店舗に断られ、やっとOKが採れたのは、日本レストランが経営するカレーハウス「BOLTS」だった。熱意が通じたのか「少量でも必要なときにいつでも買いに来てください。」と優しい言葉をかけていただいた。本国の青唐辛子に匹敵する旨味を兼ね備えた食材との出会いは、ラ・カシータのサルサ・メヒカーナやサルサ・ランチェラの基盤となり、その後の安定した献立作りの原動力として全体を支えてくれた。時代は移り変わり、多彩なメキシコ唐辛子が入手し易い状況にはなったが、現在でもこの会社との親交は続いている。