メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第46章

我が人生、最大の恩師

長らくメキシコ大使の補佐を務められたAnibal上原氏が、昨年大使館を去ることになった。東京での就職を斡旋してくれた恩人である。彼との出会いがなければ今の私が現在に至ったかどうか?おそらくもっと過酷な茨の道を歩んだのではなかろうか?と、ふと考えてしまう。運命の遭遇は渡墨前の神戸時代に遡る。米国式メキシコ料理を信じて疑わずに調理していた頃の私は、店が請け負った大阪の老舗デパートでのメキシカンフェアのイベントに果敢な闘志を燃やしていた。料理の種類も然ることながら、料理長と記された竹製の名刺を誇示したくてたまらなかったのである。そんな折、東京から視察に来阪されたのが、当時メキシコ大使館商務部参事官の肩書を持つ彼だった。今思えば、勘違いも甚(はなは)だしい献立と、気障な名刺をひけらかす男が、なんと滑稽で生意気に彼の眼には映ったことだろう。その時は挨拶を交わしただけで別れるのだが、国の業務に携わる立場を記した名刺を交換して手に入れた私は、愚かにも舞い上がり、財布に入れてしばらくは事あるごとに誰彼となく自慢していた。時は流れ、いつの間にか2年の歳月が過ぎ、名刺の存在も忘れかけていた。その頃の店は繁盛していたが、来店したメキシコ人達から辛辣な酷評を浴びた経験から悶々とした日々が続き、ついにメキシコ行きを決意した私は退職。本国の実情を知るために、たった1枚の名刺を頼りに一路東京へ向かった。

大使館の受付嬢は、アポイントも取っていない私には当然のごとく事務的に拒絶の応対で、おまけに「ここは就職の世話などいたしておりません!」とけんもほろろだった。食い下がる私に業を煮やしたのか「お帰りください!」と声を荒げた。その時だった。偶然、通りかかった男の顔に見覚えがあった。上原氏本人だったのである。彼は私のことなど全く覚えていない様子だったが、訳を話すと、「あ~、あの竹の名刺の人?」と思い出してくれた。取り敢えず話だけでも聞きましょうと側の部屋に通された。当時はガイドブックもない時代。現地のレストランの数や働ける手段、ビザの発給、渡航の方法など、知りたいことは山ほどあった。話し始めて、気が付けば1時間も経っていた。熱意に根負けしたのか、「君が本当に本国の伝統料理を修行してくるなら、ここは金銭の助けはできないけれど応援はできる。大使館も日本に正統派の料理店がないので困っている。もし成就した暁には連絡ください。」と、メキシコシティの有名レストラン、総数20軒のリストを作成してくれた。遠い未来に希望の灯火(ともしび)の花が咲いた瞬間だった。とはいってもJALの往復運賃は36万円と高額、大卒の初任給が6万円の時代である。神戸に戻った私は、学生の頃にアルバイトした店に頼み込み、貯蓄に精を出す毎日が始まった。