メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第53章

身に余る抜擢

我が国の料理の世界には、数え切れないくらいの達人や天才達が、幾人も全国に存在している。技術やセンス、知識に於いて到底敵うはずも無い私が注目されて重鎮とまで認めて貰えるのは、メキシコ料理に関して多少の技と蘊蓄が他の方々より勝っているだけのこと。次世代の近未来には、現代のイタリア料理界のごとく、スーパーシェフや創作性豊かな業師達が日本中に満ちあふれているはずである。“料理は芸術”との表現をよく耳にするが、他のアート作品のように残るものでは無く、一皿ごとに果敢無く消えゆくもの。ラ・カシータが一筋貫き通してきた姿勢と願いは、顧客の胸に残る感動の味を次回も裏切らずにもう一度蘇らせ、幸せ感に浸る人々の喜びに満ちた会話が聞こえてくる情景を今日も目にすること。現在の厨房の面々も、歴代のスタッフに負けず劣らず、いや、それ以上に頑なに味の基盤を守り通してくれている。最近、25年とか30年ぶりと宣うお客様が毎日のように入れ替わり来店されるが、「久しぶりだけど、やっぱり美味しい!」とのお声をいただく。お陰でメキシコ料理界の壇上に、最優先で位置づけられている。

25年前と云えば、印象的な出来事が思い起こされる。その頃、常連客として通われていた料理コーディネイターの杉野ヒロコ女史から「今度、料理人ばかりの本を作るんだけど、貴方、数に入れておいたわよ。いいよね?!」と、否応なしに承諾を求められた。女史は著述業だけではなく、食品会社や飲食店のメニュー開発などにも幅広く活躍され、業界では名の知れた存在である。「今度、撮影に来るから」と言い残し、詳細も聞かせてくれないままに取材当日を迎えた。インタビューが進む中、明かしてくれた事実に驚いた。何と!日本を代表するシェフ40人の一人に抜擢されていた。この店の料理は一級品と、日頃誉めて貰えてはいたが、まさかの事態である。『素晴らしき料理人』と題された一冊のメンバーを伺うと、これ又、驚愕してしまった。ホテルオークラの小野シェフを筆頭に、吉兆の湯木氏、銀座マキシム・ド・パリの浅野氏、京都瓢亭の高橋氏、ろくさん亭の道場氏、クイーン・アリスの石鍋氏、つきぢ田村の田村氏、野田岩の金本氏、KIHACHIの熊谷氏など、枚挙に暇がないほど一流料理人ばかりが連ねられていた。「冗談はやめてくださいよ」と思わず本音を口にしていた。取材を終えた後、女史は「貴方はそれほどの人よ」と私の肩を叩き、笑顔で店を出て行った。平成3年春に出版されたこの本は、今でも気恥ずかしい限りである。