メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第57章

小新聞のコラムへの執筆

還暦を超えて半ばを迎えようとするこの頃、一年の歳月が余りにも敏速に過ぎ去る状況に戸惑いを覚える瞬間が増えてきた。誰しもが経験することではあろうが、逆に若い頃のあの濃密な時間の流れに不思議な運命を感じてしまう。それは活気溢れる日々の行動が結果をもたらせたものかどうかは今もわからない。ただ少なくとも、凝縮された時間の中で、あの頃の物知り顔をした熱意(生意気さ?)が人々の関心を高め、様々な出会いを呼び込んだ出来事の積み重ねが、現在の私を育成してくれたのではないかと、最近この原稿の連載を書くようになって、改めてその恵まれた事実に驚いている。思い返せば、1976年当時の公園通りはPARCOができたばかりで、渋谷駅からその交差点までは賑わってはいたが、坂上の渋谷公会堂辺りはそんなに人は多くなかった。それも表通りではなく、路地を入って少し奥まった場所に開店した怪しげなたった7坪の小さな店が、繁盛店になるなど誰も期待してはいなかった。連載の最初の頃、その事情に触れたが、駅前にビルが完成するまでの一年半の期間だけ使用を許された代替地だった。持ち主のご厚意でメキシコ料理が面白いと目を付けては貰えたが、明治生まれの彼女にとっては、ただ遊ばせているよりはましと、たぶん考えていたに違いない。

それでも与えられた好機に報いるべく全身全霊を込め、一歩足を踏み入れてくれた客達の一人ひとりに、くどいばかりの料理解説を交えながら接する毎日が過ぎていった。よく覚えてはいないが、相手の年齢も立場も我関せずにメキシコ料理の解釈を語るその態度は、時には鬼気迫るものがあったよと、当時の顧客達から何度も聞かされる。功を奏したのは、世の中の風潮が、音楽やファッション、飲食に関して、『これからは、自分たちが見つけたもの、その場所』と変化が起こり始めた時期に遭遇したことである。流行りものを追いかける原宿を意識した若い世代の対抗心が、公園通りに求めたものはまさにそれだった。マスコミに対してミニコミと称された小冊子の取材がだんだんと増えていった。おかげで店の情報が一般の目にとまるようになり、帰国子女や中南米に携わる多くの方々の来店を得ることができた。毎夜、彼らとの料理談義が何時間も盛り上がる様は、レストランというよりも、ある種サロンと化していた。まだ開店して4ヵ月くらいの頃の状況である。ある日のこと、そのメンバーの中の小新聞を発行している方から、毎月のコラムでメキシコ料理事情を執筆していただきたいと依頼された。原稿用紙一枚分の小さな枠だったが、知って欲しい事柄が山ほどあった頃、作文など苦手で困惑したが、勢いで承諾し、何回か連載を続けた。今読み返すと、稚拙な文章だが、この経験が後日思いも寄らない事態へと繋がっていく。