メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第58章

写真家 並河萬里先生

渋谷公園通りの店は、場所柄NHKに近かったせいか、局員の方々がよく来店してくれていた。中でも美術班のカップル二人(後に結婚)は、週に2〜3度はランチを食べに来た上、夜も友人達を引き連れて来るぐらいにラ・カシータの味に填まっていた。食文化の伝達で大事なことは、講釈も必要だが、未知の味覚に遭遇した瞬間に、理屈は抜きでその味の魅力に陶酔していただくのが伝承者の役目と心得ている。様々な経営戦略があるが、不正解がないくらいにどれを選んでもすべてが正解に思える。仮に、公園通りの店が長期間使用可能で、経営責任者としてのノルマを課せられていたら、また違った結果になっていただろう。幸いにも持ち主の思惑と当時の自分の境遇が寄り添い、あの場所で実践できた経験は、恵まれた事実以上に、今、必然性を感じてしまう。当然、料理人としてそのままの皿を提供したい気持ちは根底にあるが、世の中、そうそう思い通りに事が運ぶものでもない。本国の基盤を崩さずに偽りなく伝えて行くには、技術や知識、そしてセンスも必要だが、メキシコと日本では気候条件や食材の成り立ちも違えば、盛り付けの美意識も変わるので、現地以上の柔軟な感性が必要とされる。食に精通した日本人の舌を唸らせるには、基本のレシピだけでは追いつかない。美味しさに気付く入り口に導く究極の手段はわかりやすく、シンプルに、そして時には大胆に表現しなければと常々考えている。

1977年の年も明けて、ある寒い日の午後だった。大柄な男と、もう一人は細身の二人が来店した。横柄な態度で腰を下ろした。がたいの良い男性は先生と呼ばれていた。ワカモーレと牛タコス、鶏料理を注文して食事が進む中、いきなり「料理を作ったのは君か?」と問いかけてきた。何か問題が?と緊張しながら側に寄ると、「メキシコに居たのかね?」とまた、問いかけてきた。経歴を話しながら、味が気に入りませんか?と尋ねてみた。「旨い、抜群に旨い!」と絶賛である。後に知ることになるが、男は並河萬里、世界の文化財を撮影してきた日本を代表する写真家であった。NHKのディレクター(細身の男)が小新聞に連載した原稿を読んでいて店の存在を知り、訪ねてくれた由。追加の料理を注文され、今度は「君、僕の本に原稿を書いてくれないか」と唐突に言い放ってきた。この春に出版する写真本『並河萬里、遺跡をゆく2、マヤ・アステカの旅』に1ページで良いからと。ご本人の性格か、もう結論付けて一旦帰られた。3日後、身内と来られた萬里先生は「大したもんだ、全部旨い!」と終始ご満悦でご機嫌だった。依頼された原稿用紙5枚分の枠には、精魂込めて集中した内容を織り込み、お褒めの言葉もいただけた。この本には大学名誉教授や映画監督の羽仁進氏、イラストレーターの長尾みのる氏など一流の方々が執筆されている。写真の大家でありながら、一瞬の出会いで、見ず知らずの若者に何かを感じていただけたこの出来事が、その後の自信に繋がっていくことになった。2006年に亡くなられたが、今更ながらに感謝の念に絶えない。