メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第64章

旧山手通りラ・カシータOpen

1977年夏、神奈川大学のサークル西風会の部長から「妹がここの料理に感動している。昼間は保母の仕事があるが、夜と日曜だけ是非アルバイトをしたいと」と申し出があり、人手も足りなかったので二つ返事で即採用した。キュートな美人の彼女には彼がいたらしく、週に何度か一人で訪れるその長身の男は、いつも無言で食事を嗜んでいた。折を見て話しかけてみると、同じ関西出身、年も同期、すぐに気が合った。有り難いことに依頼されたラ・カシータでの結婚披露宴も、7坪の店内に30人余りが集う盛り上がりで、親しさは増していった。年も押し迫った頃、「店は年内で閉店。今度代官山で再スタートするつもり」と事情を話すと、設計は誰が?と問い返してきた。何の伝もなかったが、赤坂AMBEで知り合ったイラストレーターの秋葉さんからプレゼントされた一軒家風の挿絵を実現できたらと、漆喰の壁や古煉瓦のイメージを語ると、「俺が描いてやるよ」言い出した。相手の詮索をしない性分なのでそれまで知らなかったが、彼の身分は一級建築士。役所や保育園などを専門とする設計会社のチームリーダーだった。まさに渡りに船。年明けから新規オープンへ向けての準備が始まった。探してくれてた内装業者の指定も然る事ながら、資金に余裕が無い分、家屋の廃材を使った組み立てで構成された図面は完璧だった。学生たちの援軍も加わり、看板やテラスの椅子、テーブルは自分達で手造り。今でも語り種となる旧山手通りの店が出来上がろうとする矢先の事だった。

問題が生じていた。ビルの一室が事務所仕様の為、ガス管が細く供給量が足りないのである。解決策はプロパンガス業者に委ねる事となったが、これが近隣の住民に不安を与える事態に発展する。町内会から呼び出しを受けたのは、開店間近の頃だった。小路を挟んだ裏の町会長宅に集まった10世帯の方々から、猛烈な抗議と募る不安を訴えられた。横隣りはガソリンスタンドと自動車修理工場。万が一事故が起きたらどう責任を取るのか。設備の安全性は使用地域のデータ資料を持参して説明出来たが、確かに高級住宅街にボンベが数本並ぶ光景は似合わない。納得してもらえない時間が過ぎる中、もう一つの意見が発言された。「暴走族の溜まり場にならないのか?」。メキシコ料理がどう捉えられたのか、時代背景的には未知な分野だけに野蛮なジャンルに思われたのは心外だった。日本人がまだ気づいていない美味しさ、メニューの独創性、それを表現する場所として必要なんですと必死で解説していた。一途な気持ちが伝わったのか、会長からの提案が出された。全ての責任に於いて償う主旨の誓約書を書いていただきたいと。その場を収めるにはそれしか無かった。作成の後、お一人お一人に深々と頭を下げ、ご憂慮が解けたら是非、食事にいらして下さいとお願いした。各メディアが取り上げるようになってから、まず町会長のご家族が来店されると、近所の方々が次々と来られ、杞憂は払拭された。