メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第68章

お呼びがかかった辻調講師

江戸後期のオランダ商館医、かのシーボルトが在日の折、事あるごとにコーヒーの美味しさを推奨し続けた功労で、明治以降ブラジルへ移民する人々が増え、コーヒー農園の仕事に携わった。この時代、ブラジル政府は大量の生豆を毎年、無償で我が国に提供していたと聞く。およそ200年の時を経て、現代ではなくてはならない必需品となった。往来が不可欠ならば、今回の首相のメキシコ訪問で、輸入量が増えるであろう本国の産物が日本市場に溢れることになり、メキシコ料理の食材の知識や調理法が、遠い遠い未来では常識になっているかも?、と考えてしまうのはあまりにも早計だろうか。とりあえず、今の私にできることは少しでも多くの人が未知の美味に気付く機会を提供すること。そのためには店や教室も重要拠点であるが、出張講師も啓蒙の手段。特に、調理師専門学校で講義ができれば現状打破は早まるものと、予てからの念願だった。朗報が飛び込んできたのは、2010年が明けた頃、何と「エコール 辻 東京」からのお誘いである。心底嬉しかった。電話を切った後、身体は沸々と湧き上がる静かな闘争心に漲っていた。後日、来店された教務部の永井先生から、大阪阿倍野本校で西洋料理の部長職を担う三木教授からの推薦だと、抜擢の訳を聞かされた。そういえば、90年代に一世風靡した料理番組『どっちの料理ショー』で調理指導した時の出会いから、毎年のように来られていた。

5月下旬、講義当日、JR南武線の谷保駅に降りた。到着の連絡を入れ、校舎に向かうと正門前で何人もの先生達がお出迎えである。驚いたことに三木教授まで居て、満面の笑みでハグされた。わざわざ大阪から出向いてくれた由、ここまで期待されては緊張なんてしている場合じゃない。精一杯、持てる力を出し切らないと申し訳ない気持ちで準備に入った。余程、大袈裟にプロフィールが流されたのか、調理服に着替えて打ち合わせをしている間、フランス料理のみならず、中華、和食、イタリアンの各教授達が「今日は宜しくお願いします」と挨拶に訪れる。勘違いも甚だしいのにまるで自分が大聖人にでもなったかの様相。歓迎されるのは嬉しい限りだが、本陣は教室の94名の生徒達。聴講希望の教授達を含めて100余名相手の授業が始まった。メキシコの歴史的背景に基づく既成概念から、日本での誤った固定観念、食材に対する無知が引き起こす思い違いを説いていく。実習の調理補助はフランス料理の准教授3名。彼らも初めて目の当たりにする独創的な光景に見入り、講義に耳を傾ける。勿論、知識欲旺盛な生徒達の眼差しは真剣そのもの。前半70分が終わった時点で休憩時間に入っても教室を出る生徒は少なく、皆、教壇前に来て質問の嵐である。後半が始まった頃には、自分の席から身を乗り出さんばかりの波動が伝わってくる。この流れの中で意外な展開が私を待ち受けていた。