メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第72章

Café y Arte

『Café y Arte』、メキシコ市の中心街、レフォルマ通りの一角にその店はあった。メキシコ政府機関(INMECAFE *当時)が主催するこの場所は、コーヒーとアートの名が示す通り、店内には自国の著名な画家や彫刻家の芸術作品が展示され、国産コーヒーが色々なアレンジで楽しめる落ち着いた空間に演出されていた。豆の味も然る事ながら、独創的メニューのクオリティの高さに圧倒され、魅入られた一人の日本人女性がいた。1975年春の頃である。日本での披露許可を申し出るが、この機関では世界各国に一国一軒だけ出店を認める制度を定めていて、社会的立場や資金面の余裕など、様々な条件をクリアーしないとその権利を取得することはできない仕組みとなっていた。それから約一年かけて、ようやく容認された店を赤坂にオープンする運びとなる。丁度その頃、5分と離れていない赤坂『AMBE(アンベ)』で調理をしていた私との運命の出会いは、舞台の台本の如くできあがっていた。善戦空しく、啓蒙活動をしていた私に「庸生ちゃん、お互い頑張ろう」とやさしく声をかけてくれた彼女は一回り以上年上だったが、当時は少しお姉さんかな?くらいに見えた。営業権利を得た彼女は一般人にメキシコを身近に感じさせる手段を講じる。指定の献立はそのままに、高級な芸術品ではなく、装飾品や小物、衣装などの民芸品を店内に展示したのである。その作戦は見事な結果を生む。

この時代のラテン感覚は、スペイン雑貨やイタリア家具などのヨーロッパものが中心だった。食事も例外なく、スパゲッティや地中海料理などがそう思われていた。メキシコは未開の国、そんな認識だった。私が食文化にこだわるように、彼女は民族文化を見せつけようとした。大胆な色使いの刺繍、原色でデザインされた陶器、手彫りの銀細工など、メキシコ独自の伝統は客達を魅了し、店は販売や貸し出しに繁盛していく。在庫が無くなると本国へ買い付けに出向き、この40年近くの渡墨回数は優に100回を超えるほどだった。代官山に私が開業した頃のことである。閉店して帰り支度をしていると電話が鳴った。今すぐ赤坂に来てとの用件である。詳細は告げられないままに急いで向かうと、「やっと見つけたの。欲しかったでしょ」と大きめの箱を差し出してくれた。中を開けるとトルティージャを焼いているインディオ夫婦の人形があった。感無量である。その夜は、これからこの国に如何にメキシコ文化を伝えていくか、夜中まで話し込んでいた。活躍は多方面にわたり、メキシコ政府文化庁から勲章までお受けになる名士にまで上り詰めるが、気さくで、会う度にいつも私のことを気にかけてくれ、「頑張ってる?ラ・カシータが流行っていると嬉しいの」と笑みを浮かべる。口癖は「私たち、お互い同士じゃない」。今年(2014年)1月に永眠されたが、胸の中に存在し続ける偉大な恩人である。メキシコ民芸品の普及に貢献した最大の功労者。彼女の名は織家律子。心よりご冥福をお祈りいたします。