メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第79章

ペルー料理『荒井商店』

2002年に旭屋出版から刊行した『魅力のメキシコ料理』、当時の販売元の予測では、200部くらいしか売れないでしょうとの見方で、あまり期待はされていなかった。ところが、初版から二ヶ月でその数字を超え、増刷を重ねて一年経った頃には5000部に達していた。そして店には、全国から数多くの調理人たちが訪れてくるようになった。ジャンルを問わずにイタリアンやフレンチ、中華や和食を専門とする彼らが、未知の領域の食材やレシピに興味を抱くだけに留まらず、TEX-MEXに偏ったこの国での認識を改めようと料理界に挑んでゆく私のスタンスに何かを感じてくれたみたいで、四国から上京し、銀座で創作和食を営む板長には「この本が励みになります」とサインを求められ、固い握手を何度も交わしていた。北海道・旭川から店をわざわざ一日閉めて、お一人で来店されたイタリアンのシェフは「どれも全部、美味しいです」と絶賛だった。少し、お話ができる時間があったので、本国の唐辛子を駆使した魚介類のパスタを提案してみたら、大変乗り気で、きっと今頃は店の定番ができているかもしれない。フレンチの名門『オテル・ドゥ・ミクニ』で仕事をしていた荒井隆宏君が訪ねてきたのは、初版を出してすぐの頃だった。真剣な眼差しで「メキシコで修行をしたいんです」と哀願された。突然の申し出に驚いたが、嬉しかった。本気だと感じ、相手を見つめ返していた。

それから幾度も食事に来ては相談を受けた。労働ビザ取得の難しさや、厨房の職場状況を説き、所持金を蓄えた上で賃金をあてにせずに滞在できるのであれば、私の師匠に紹介状を書くつもりでいた。年が明けて2003年、春にアルゼンチンから一行のメールが届いた。「たった一冊の本が、僕の人生を変えました」。この時は何の意味か全くわからなかった。後に知ることになるが、メキシコ行きを決意し、スペイン語を習得するために知人が経営する横浜の料理店に転職した彼は、そこで衝撃の食材や調理法に出会ってしまうのである。気が付いたらペルーへ旅立っていたと、一年後、帰国した荒井君は語ってくれた。孤児院の給食施設の手伝いから始まった調理体験、溢れんばかりの食材と贅沢さに恵まれた我が国とは比較にならないほどの食生活、食材を愛おしみ、食べられることの有り難さ、と食生活の原点に触れたことから、調理人の本能が目覚め、その後、数件のレストランで修行を積むことになる。フレンチで培った彼のセンスは抜群のものがあり、披露していく創作メニューはメディアの関心を呼び、有名な料理雑誌に何度も取り上げられる程だった。現在は東京・新橋でペルー料理専門店『荒井商店』を構えるだけでなく、家庭料理書、専門書を執筆し、逞ましく活躍している。近い将来、学術書を刊行できるのは荒井君以外には考えられない。楽しみな時間を与えてくれる彼に感謝。