メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第81章

新規採用職員への研修

「今日は渡辺さんに元気を貰いに来ました」。度々、こんな言葉を何人もの常連客からかけられる。30年以上の顧客たちからしてみれば、通い慣れた行きつけの店は、美味しい食事と団欒、そして癒しの場所であるはず。本来なら、店側が彼らに感謝をし、心地よいサービスを提供するのが道理であろう。訳を聞いてみると、私の人生観が理由らしい。メキシコ料理の啓蒙に邁進するだけでなく、前向きで全ての現実を捉えていく生き方に共鳴を覚えるとのことである。そう言われてみれば、何年、何十年と来店していようと、相手がどのような人物なのか詮索もせず、時には自己体験からの説教じみた話が常だった。ただ一度しかない人生。どの現場に居ようと、自分と向き合わないと勿体無いと思っているので、ついつい仕事に疲れているのを感じると「人は人、我は我。なかなか線引きはむずかしいが、成るようにしか成らない」などと、教理を説くかのように接してしまう。それぞれが選んだ学業、仕事。自分ができることで相手が喜ぶのであれば、その道筋に励めるはずである。不平不満を云う暇があったら、事実を受け止めて、其処を乗り切る積極性が不可欠と考える。飲食店の主人にしては珍しいと、褒め言葉かどうかわからないが、個々に誰しもが心の奥底に持っている気持ちではないだろうか。

その依頼は、暮れも押し迫った2009年の12月の頃だった。30年来の常連客に、授業の最後に全員から拍手をいただいた共立女子大での講義の様子を話していると、突然、「うちにも来て貰えませんか?」と立ち上がり、両肩に手を置かれた。どこの大学かわからなかったが、メキシコ料理の講義なら断る理由はない。「ご挨拶は初めてになりますが」と差し出された名刺には、総務省大臣官房秘書課課長補佐と記されていた。彼の口から出た言葉は「来年度の新規採用職員研修の講師を是非お願いしたい」。驚いた。とんでもない事態である。とても私なんかが務まる現場じゃないでしょうと固辞していたら、「実は、毎年、心理学や精神科医の先生方に来ていただくのですが、何人かが鬱になったり、辞める人や、中には自らの命を絶つものまでいる状況です。渡辺さんの人生における気持ちの持ち方は、この私でさえいつも元気になります。現状の肯定をテーマに話していただければ有り難いです」…面白いと思った。度胸とか名誉とは無縁の心境だった。自身の話が役に立つなら、こんなに嬉しいことはない。この機会を逃したら、霞ヶ関の省内なんて生涯、拝めるものじゃない。経験してみたい欲がフツフツと湧いて来た。「やりましょうか」、ほかの職員3名も立ち上がり、全員と固い握手で承諾をした。果たしてどんなドラマが待っているのか、未知の世界へ向かう期待感が大きく胸に膨らんで来た。