メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第88章

千客万来!森クミ食堂』

維新を機に明治10年頃我が国に開館された西洋料理の現場では、諸外国国賓を持て成すためにカレーやカツレツ、ビフテキなどが調理されていたが、まだまだ庶民には程遠い存在だった。時は流れ、大正12年の関東大震災後、一軒の店で和・洋・中すべての日常料理が食べられる大衆食堂が出現したことで広く知られるようになる。そこで生まれたカレーライスやオムライス、ハヤシライスは絶大な支持を得て世間に定着していく。それからおよそ100年の食の歴史は、私たちの食卓の風景を大きく変えた。カツカレーやカレーうどん、麻婆丼、最近では明太子スパゲッティに至るまで生活に馴染んでいる。メキシコ料理がその領域に近づくのにはまだ時間が掛かりそうだが、NHKの『きょうの料理』で披露したように、日本の食材との相性は抜群である。その美味しさを表現できる料理人が増え、提供される食事処が数多くあれば、前述のようにいつかはその時代が来ると信じている。常々そんなことを思っていると朗報がやってきた。BS日テレ7からの電話があったのは2014年の春だった。オペラ歌手の森公美子さんが主導する大人のための健康料理バラエティー『千客万来!森クミ食堂』への出演依頼である。送られてきた企画書には「もっと美味しく、もっと健康に!」をテーマに様々なアレンジ料理と記されていた。千載一遇の好機到来である。後日、来店したディレクターさんとの打ち合わせで、メキシカンを基盤にした創作料理の妙味と、感動の美味しさに出会える幾つかの献立を提案してみた。

身近に揃う食材で構成したアイデアに担当者は喜び勇み、「収録が大変楽しみです」と去っていった。当日の朝、店のスタッフ一人を伴い、三軒茶屋近くの小さなスタジオに出向いた。初めてお会いした森さんは優しくて朗らかで、現場の緊張感は無くフランクな雰囲気は気持ちを楽にさせてくれた。フレッシュなオクラを加えたサルサ・メヒカーナを焼き鮭に添えたもの、同じサルサを豆腐や薄切りトーストにのせた一品は絶賛だった。トークも弾み、リラックスムードで4週分の撮影は進行していく。アボカドディップを温野菜やマリボーチーズに絡める皿やカニカマとカイワレをワカモーレで巻いた手巻き寿司に彼女は大興奮、「本当に美味しい!」のコメントに、プロデューサーがカメラの後ろから指で丸を作って私に示してくれた。最後の週の冒頭、ジャガイモが登場すると森さんから爆弾発言「私、ジャガイモ大っ嫌い」、びっくりした。聞いていないし、進めるしか無い。トマトを主にしたランチェラソースを炒めた牛肉に加え、ポテトチップスに乗せる工程で、薄くスライスしたジャガイモをラードで揚げているときだった。聞こえてきた声は、「何ていい匂い、私、この時点でジャガイモ好きになりそう」、油切りに置いた瞬間手が伸びてきた。摘まみ食いである。美味しさに気づいたこの料理はお代わりまでしてくれた。嬉しかった。10時間に及んだ収録に疲れてはいたが、充足と達成感に心地よかった。