メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第112章

大使の送別会

メキシコ政府関係者の方々にはオープン当初からこれまでに随分とお世話になってきた。1976年、渋谷公園通りの店の開店準備に奔走している頃、どうしても手に入れたかったものがあった。本物の国旗である。当時、各国料理店の殆どが店の前に掲げているのを目にして憧れがあった。入手の手段も判らないままに、図々しくも領事館を訪ねてお願いをしている自分がいた。開拓精神溢れる気概が通じたのか、担当者の方が「売却も譲ることもできないが、貸与なら」と応対してくれた。一枚の書類に署名をして手に入れた大きな国旗。しばらく店頭で風に吹かれていたが、今は我が部屋の片隅で静かに眠っている。あれから40年余、ご厚意の貸与期間はまだ続いている。商務参事官や文化担当官のご家族達もよく食事に訪れていた。前菜や軽食も好評を得ていたが、とりわけ気に入っていただけたのは海老の献立だった。近頃はアジアものばかりが市場に出回るが、恵まれたことに、この時代の輸入海老はメキシコからのものが大半を占めていた。甘みがあり、噛み応えのある食感と凝縮された旨味は本国独特の特徴で、ニンニクオイルで調理したものや、優しいトマト味のランチェラソースで絡めた皿がお気に入りだった。この頃の大使館には専属の料理人がいなかったため、大使夫妻の食事や、家族親睦パーティーのケータリングによく出向いていた。おかげで各種唐辛子の類いや香菜の種子などを分けて貰えた。

現在はメキシコ食材の輸入業者も増え、安定して質の良いものが購入できる世の中になったが、1980年代はなかなか難しく悪戦苦闘していた。ただ、基本に忠実に美味しさを提供できた状況が信頼に繋がり、官僚達の評価は徐々に広まっていった。2010年の秋のことだった。外務省から連絡があり、今度、メキシコの日本大使館に赴任する大使の送別会をやりたいとの申し入れだった。当日は職員14名が待ち受ける中、現れた小野特命全権大使が席に着くと一同は張り詰めた空気に包まれていた。挨拶が終わり、食事が始まる。少し緊張が漂う雰囲気は、私にとっては苦手なものだった。前菜盛り合わせ、ケサディージャ、牛肉のタコス、海老のにんにく炒めまで進んだ時、突然大使が大きな声で「美味しいね!」と言いながら、笑顔で皆を見回した。この一言で場は和み、忽ち話に花が咲いた。小野さんは料理に興味を持たれたのか、席に呼ばれ、本国の食文化について話を聞きたいとの要望があったのでレクチャーしている時だった。職員から「大使に渡辺さんの著書をプレゼントします。サインも入れて下さい」と声があがった。光栄なことだと胸に感じながら名前を入れ、宴の時は過ぎていった。それから4年後、来店された小野さんは「省に帰ってきました。あの本、向こうでかなり役に立ちましたよ。御礼を言いたくて」と話してくれた。照れくさいが褒めて貰えたのは嬉しい限りである。