メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第119章

メキシコ料理の父

私が料理の道を志して歩き始めた1970年代の頃、日本では西洋料理に於いて、フルコース(オードブル、スープに始まり、魚、肉、野菜の料理の後、デザート、コーヒーで終わる【広辞苑より】)があるのはフランスだけだと思われていた。その他の国、例えばイタリアならピッツァとスパゲティ、ロシアはピロシキとボルシチ、インドはチャパティとカレー、韓国はキムチと焼肉など、それらを賞味しただけでその国の食文化全てに触れたような認識だった。メキシコ料理に関しては無知も同然、少し知識のある方々でも煮豆とタコスだけの理解で捉えられていた。まだ海外を訪れるには高額な航空運賃、ドルの持ち出し制限など、制約も多くあり、情報を得るにはなかなか難しい時代でもあった。イタリアンのスーパーシェフたちが台頭してきた1990年半ば頃には、地域性溢れる献立の妙味、ピッツェリア、トラットリア、リストランテなどの区別、また1553年、フランス国王に嫁いだメディチ家の妃付のコックがフレンチの基礎を作ったという歴史などが明らかにされ、一気に興味の対象が広がった。因みに現在も日常的にトスカーナで食べられているいんげん豆は、16世紀にメキシコから渡ったものである。彼らがそれぞれ現地で修業して得た知識や技術の披露は、日本人を感心させるには充分すぎる程の力量だった。誠に羨ましい限りである。メキシコ料理店も、最近全国に増えてきたが、現地で修行をした調理人は数人しかいない。レシピ本や旅行程度で修得できるものではない。

メキシコ料理にもフルコースがあることを表明しなければと決意したのは、旧山手通りにオープンした1978年だった。前菜、スープ、一品料理をふんだんに盛り込んだメニューの数々は、徐々に知識層に浸透していった。海老のにんにく炒め、若鶏のメキシカンソース、中でも評判を取ったのは、Carne Asada A La Tanpiqueña(牛フィレステーキ タンピコスタイル)である。このステーキは私が修業した伝統料理の店『メソン デル カバージョ バーヨ』の初代オーナー、ホセ・イネス・ロレード氏が生まれ故郷のタンピコをイメージして1939年に考案した皿である。タンピコの山並みに見立てて牛フィレ肉を屏風のように折り返し、繋げながら切って行く。折り返し部分がまるで山脈のように見える見事な帯状のステーキである。驚いたのは、瞬く間にメキシコ全土のレストランに広まり、肉の部位や付け合わせの類の変化はあるが、タンピコ・ステーキの名がメニューに載っている事実である。メキシコ滞在中に全国を回ったが、中には「ロレード氏のレシピで」と但し書きが記されている店が何軒もあった。ラ・カシータの顧客たちにも好評で、多くの常連客が40年近くタンピケーニャが食べたくてと通い続けてくれている。目を掛けてくれたロレード氏に感謝!