メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第122章

教室の優等生

2009年10月の頃だった。一人で来店した男性客から「全部美味しいです。感動しました!」と話しかけられた。年の頃は40歳手前くらいの彼は、シェフの本も購入してチャレンジしていますが、なかなか上手くできません。少し話を聞きたいと興味津々の様子だった。難しく書いたつもりは無かったが、唐辛子類を焼く、揚げる、炒めるなどの最適な状態を見極めるには、私と共に調理しないと、やはり読むだけでは把握できないという主旨の説明をした。恵比寿の読売カルチャーで毎月教えているので、「来ますか?」と誘ってみたところ、「ありがとうございます。伺います!」と嬉々として店を後にした。翌月、教室に顔を見せた彼は、調理工程だけではなく、食材が持つ特性、メニューの時代的背景、地域性などの講義を真剣な表情で聞き入っていた。教室の度に夜は奥様と共に店で食事を楽しむ彼が、ある日、口にした言葉には驚いた。「実は僕、JR静岡駅近くで長くメキシコ料理屋をやっています。先生の料理に出会ってから、自分のスタイルはアメリカのだと気付きました。是非、シェフの味を習得して提供したいと考えています。いかがでしょうか?」何と、毎月新幹線で通っていたのである。この申し出には私の方が感銘を受けた。その夜は徹底的に伝授する方向で約束は固まり、これからのメキシコ料理にかける強い思いを、如何に顧客を啓蒙し、対応していくかで話題は盛り上がった。

教室は本来、調理はデモンストレーションだけで良いのだが、トルティージャの生地だけは手が覚えないとダメなので、毎回、彼ともう一名を指名して一緒に練ることにした。硬粒種のとうもろこし粉の隅にいる消石灰に、少量の水を与え、粉全域にその成分が拡散するまで一切水分を加えない。ただひたすら手を動かし、かき混ぜていく。すると食材が持つ良い香りが漂い始め、だんだんと全身が香りに包まれるような状況が生まれてくる。ここから少しずつ水を足しながら細かい粒を作り、さらに水分を加えると、それらが寄りあつまるようになる。ここからが練りに移行する瞬間である。練りあがった生地はしっとりしなやかで光沢を放っている。最初は戸惑っていた彼も、一年を過ぎるあたりにはしっかりとできるようになっていた。トルティージャを完全克服した後も通い詰める中、14年間営業した静岡の店を閉じてしまうという驚きの行動に出た。その後、友人がやっている六本木のタコス専門店でトルティージャとサルサの類を指導しながら経営実務、業者対応を学んでいた彼も、ようやく踏ん切りがついたのか、先日、「もう一度、静岡で出直します」と挨拶に訪れた。新しく厨房を構えて「先生の味を基盤に、美味しい皿を提供します」と、晴れ晴れとした表情で決意と夢を語ってくれた。彼の名は「坂田晋也」、5年の長期にわたって教室に通ってくれた優等生である。健闘を祈るばかりである。