メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第125章

オレンジ色のユニフォーム

メキシコ伝統料理の名店「Mesón Del Caballo Bayo」の厨房では、沢山の婦人たちが要の部署を任されていた。鶏や肉、海鮮のブイヨンを摂り、献立のスープを調理、トルティージャを手焼きして焼き立てを提供する姿は自信に満ち溢れていた。和食に例えると、旨い飯を炊き、昆布や鰹節の出し汁をひいて汁物を作る板場の仕事。昭和の時代の料亭では有り得ない光景だった。考えてみれば、メキシコで数千年に渡り培われてきた食文化は、全て母親たちの役目だった。メタテ(Metate)と呼ばれる火山石で作られた石臼に茹でたとうもろこし粒を置き、マノ(Mano)と呼ばれる石棒で押し潰すように練り込んでいく作業は、重労働だが現在も各地に受け継がれている。当時(1974年)、我が国では「厨房は男で仕切るもの」とされた私の社会通念は見事に覆されていった。また、常識に囚われずに伝統料理の本質を追い求め、本来のクォリティを実現する配役に感動すら覚えていた。この出来事が切っ掛けとなり、日本の料理人たちが持っている慣習や決め事に疑問が生じ始めていく。果ては、趣味、服装、社会的立場など、さまざまな基準にまで思いを巡らせていた。ガブリエル料理長以下、にこやかに全員が一丸となって仕事に勤しむ状況は、上下関係の厳しい日本では考えられなかった。

帰国後の1976年夏、渋谷公園通りにラ・カシータを開業する際、コック服は真っ赤と決めていた。西洋料理界に於いて、フレンチ以外はまともに認められていない時代、特にメキシコ料理は多大な偏見を持たれていた。情熱がほとばしる気持ちをぶつけるには赤が最適だった。白で同列に並んでは相手にならなかったのである。奇を衒うつもりは全く無かった。むしろ白が基調とされている業界に挑戦したかったのである。美味しさが評判になる中、取材も増え、真っ赤な調理服も好評だった。ただ12月も半ばを過ぎると、サンタクロースに間違えられたり、酔っ払いに「おい、とんがらし!」と絡まれることもあった。代官山の旧山手通りに移る時に、赤に夢と希望を加えると「オレンジ」かなと勝手に解釈して作成したものが現在も続いている。スタッフたちも最初の頃は戸惑いもあったのか、買い物のたびに照れてはいたが、妙なもので仕事ができるようになってくると、オレンジ色が板に付く。あれから40年余り、料理界には黒、水色、縦縞などの例外も増えてはきたが、全国的にいまだにオレンジは採用されていない。調理人にとっては格闘技のものと同じ勝負服である。毎日、袖を通す度に気合が入る。