メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第86章

水谷豊 主演ドラマ

それは2010年夏の頃である。いつものメニューを口に運びながら寛いでいた宇津井健さんが突然、「大将!水谷豊君はいつ頃からこの店に来ているの?」「僕の方が古いよね?」と尋ねてきた。宇津井さんが他の芸能人を話題にするのは極めて珍しいことだった。訳を聞くと、TVドラマ撮影で初めて共演し、二人ともメキシコ料理が好みとわかり、当店が話題に上ったらしい。その際に自分の方が先とお互いに譲らなかったと説明された。まるで子供の喧嘩のような話である。本当は水谷君が2年くらい先なのだが、「同じくらいでしょう」と答えると、そうかと頷き、満足そうな笑みを浮かべていた。店に愛着を感じてくださる気持ちは、殆どの常連客から伝わってくるが、この時ばかりは妙に嬉しく思ったのを覚えている。後日、来店した水谷君からドラマの内容を聞かされた。難関の手術を我が国で初めて成功させた心臓外科医の話は非常に興味深く、先駆者として未来への扉を開くその医者の奮闘ぶりに、僭越ながら自分の思いを重ね合わせていた。放映はまさに劇的だった。胃の血管を切り、心臓の治療に使うという発想は賛否両論で、非難を浴びながらも医療に果敢に挑戦してゆく姿や、肥大した心臓を切り取り、縮小して新たに形成するバチスタと呼ばれる手術を一度失敗しながらも、亡くなった患者の妻からの手紙に記された「主人は希望を持ち、術後もすごく元気でした。それは事実です。どうか止めないで続けてください」との感謝の言葉で立ち直り、その後何十人もの命を救ったのである。

心臓外科医の頂点を極め、神の手を持つと評される彼が、奥様とラ・カシータを訪れたのはその年の初秋の頃だった。「須磨です。水谷さんから美味しいメキシコ料理店だと聞いています。楽しみです。」普段は誰に対してもあまり緊張しないが、それを誘発させる距離感があった。前菜からタコス、一品と食事が進む中、お二人に笑みがこぼれたので、少し安堵し「如何ですか?」と問いかけてみた。「全部、美味しいですね」と絶賛される言葉が関西訛りだった。「関西はどちらですか?」と出身を尋ねてみると、「神戸の岡本です」。驚いた。何と私が生まれ育った場所で、年齢も一つ下、しかも中学、高校のクラスメイトは共通の遊び仲間。偶然どころの騒ぎではない。瞬く間に距離は吹っ飛び、学生時代に買い物や食事をした店、屯していた喫茶店などの話題で盛り上がり、もう同窓会の様である。医者を志した動機や奥様との馴れ初め、同級生との悪事の数々などプライベートな話は尽きることなく、時が経つのを忘れた夜だった。それからは地元の友人たちを連れての来店が続き、最近は親しく「庸ちゃん!」と呼ばれる状況である。世界が認める実績と更に未知なる医療へ挑む彼とはとても比較にはならないが、メキシコ料理の啓蒙に邁進する私を、知人たちに賞賛してくれているのを聞かされると有り難く誇りに思う。これからも人生の同志として付き合いたい。彼の名は須磨久善、我が良き友である。