メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第140章

ワチナンゴ(真鯛)

西の太平洋と東のメキシコ湾。二つの大会に恵まれたメキシコには私たちの想像を遙かに超える海の幸の料理が存在する。その中で最もよく知られているのはHuachinango a la Veracruzana(ワチナンゴ・アラ・ベラクルサーナ)だろうか。この皿はスペイン統治の拠点となった東の港町ベラクルスで生まれたもので、尾頭付きの鯛が躍動的に調理されている。トマトを主にしたソースには白ワイン、オリーブ油、オリーブの実、オレガノ、ケッパー等、スペイン色の強い食材が使われているのが特徴で、メキシコ原産のトマト、青唐辛子との融合は見事な味わいを醸し出している。日本と同じく鯛は高級品で、贅沢な一品として国内のレストランでは提供されている。我が国ではお正月や祝い事に使われるが、そこまでの思い入れはないみたいである。潮流に揉まれて育った日本の真鯛は険しい目をして威厳ある風格が漂うが、ワチナンゴは環境が穏やかなのか、その愛くるしい姿に好感が持てるのが面白い。おめで鯛、ありが鯛と古くから日本では縁起の良い魚と珍重されており、食材図鑑によると正真正銘のタイ科のタイは黒鯛や血鯛(チダイ)など13種で、石鯛や姫鯛、雀鯛など、タイを名乗る魚は150種を超えるらしく、それらは「あやかり鯛」と呼ばれているそうだ。メキシコにもMojarra(モハラ)という名の鯛がいるが、姿形も味も別物である。

小学館発行の週刊誌『週刊ポスト』から取材依頼が入ったのは1988年の夏の頃だった。巻末カラーページ見開きの『男の料理』は当時、料理人憧れの企画もので、嬉しく感じたのをよく覚えている。後日、担当者との打ち合わせで、「メキシコに魚料理はありますか?」と尋ねてきたので、数え切れないほどありますよと答え、真鯛を使いたいと要望した。半信半疑の様子だったので、詳しく海鮮料理事情を説明すると、信じられないほど興奮して、早速編集部に報告しますと、足早に帰っていった。連絡が来たのは次の週。撮影は駒沢にある料理写真家の巨匠、佐伯義勝氏のスタジオで行われる次第となった。なんと編集長同行である。些か大げさに感じたが、スタジオを拝見して納得がいった。屋内にはプロ仕様の厨房が完備されていたのである。食材も器、大皿も全て用意されていた。ソースを仕込む時間は無かったので、調理は『真鯛のニンニク揚げ』に決めていた。大御所の存在に少し緊張していたのか、仕上げの段階でニンニクに心持ち熱が入りすぎてしまった。自分しか気づいていないが、後悔が残ったまま撮影は進行した。無音の部屋にシャッター音が響く。無意識に身体が行動を起こしていた。「先生、もう一度作らせて下さい」、驚いた編集長が「君!先生に何を!」と声を荒げた。幸運なことに完璧を求める巨匠は理解してくれたのか「いいよ、もう一度調理して」と許可が下りた。帰りの車の中で「君は勇気あるね〜」と編集長は感心しきりだった。