メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第142章

恩人 西山料理長

ここ数年、会計時に「お店、随分長いですよね」と様々なお客様から声をかけられる。気がつけば1976年の創設以来、44年の歳月がラ・カシータには流れていた。正直なところ、私自身にその実感がないのである。物事を振り返らない性分もあるが、その日のベストライフを尽くせば明日が来るとの想いで、これまでを歩き続けてきた。少々気障に聞こえるかもしれないが、前しか見ないと年月の観念を意識しない心境になっている。顧客達の側にも通じていて、それぞれにその日の美味しさを味わう時間を満喫する状況で日々が過ぎていく。つまり、ノスタルジーが無いのである。何十年も通っていたら思い出話に花が咲くのが通例であるが、ラ・カシータには略無い。偉そうに言うつもりは全くないが、客に媚びることない対応は、お互いの目線を同一にする最良の結果だと確信している。コロナを機に苦慮の対応が渦巻いているが、有り難いことに昭和、平成、令和とブレない姿勢が気持ちよいと賞賛してくれるお客様が多い。自粛規制の現状の中、せめて美味しい食事で元気になりたい、だからこの店に来た、こんな声を聞く機会が最近増えてきた。改めて彼らに心から感謝である。食の表現者としてお客様を裏切らない、当たり前だがこの言葉を胸に邁進する思いである。

『ベストを尽くす』これを体現してくれたのが、1967年当時、神戸で3本の指に入るレストラン『PALL MALL』の西山料理長である。学生時代の私に料理人としての将来を気づかせてくれた恩人でもある。その技量は、度々行われる神戸異人館でのパーティにも駆り出されるほどの腕前で定評があった。得意としていたのは子牛の骨や筋で摂るフォン・ド・ヴォーをベースに玉ねぎ、人参、ローレル等を加えて作るエスパニョールソース、トマトを足したドゥミ・グラスである。これで調理した牛タン・シチュー、牛テイル・シチューは右に出る者が居ないほどの味わいで、他の追随を許さない拘りの絶品だった。神戸牛の品質を見極める目、カニ・クリーム・コロッケに使うベシャメルソースのクォリティーの高さ、どれをとっても顧客達が誘惑される存在感があった。厳しい人だったが、閉店後は愛嬌もあり、よく鼻歌交じりで仕事の片付けをしていた。一番好きな曲は何ですか?と尋ねたことがある。即座に答えが返ってきた。『哀愁の街に霧が降る』山田真二(昭和31年)の大ヒット曲である。料理の世界に入った頃、よく癒やされたとの思い出話を聞いたので、「伴奏しましょうか」と持ちかけてみた。カラオケもない時代、「出来るの?」と嬉しそうに期待された。その頃、ギターは手慣れていたので、後日、気持ち良く伴奏をさせていただいた。その後店は閉店し、西山さんとも音信不通で消息もわからなくなった。5年ほど前、所用で神戸に帰った折、『PALL MALL』があった近くの店で食事をしていた時のこと、「西山さん、どうしているかな?」と思い出していた。その時、有線から山田真二のあの曲が流れてきたのである。鳥肌が立った。霊魂は信じていないが、私よりも一回り以上年上だった西山さん、この時ばかりは心が複雑だった。